原理1 実証主義
向山氏は次のように述べる。
徹底した実証主義に基づくという授業であることです。その事実が表面的なことではなく,つっこんだ上で,いろんな事も調べた上でそういった実証に絶えられるもの,事実に耐えられる物,そういったことを基盤とした社会教育をしていただきたい,というふうに思っています。(TOSS社会NetworkのNo10より)
実証・・・確かな証拠。事実により証明すること「広辞苑」
実証主義・・・所与の事実だけから出発し,それらの間の恒常的な関係・法則性を明らかにする厳密な記述を目的とし,一切の超越的・形而上学的思弁を排する立場。
耐ふ・・・当たることができる。対抗できる。「広辞苑」
・・・強い刺激や外部からの力にへこたれず,持ちこたえる「新明解」
絶ゆ・・・続いているものが途中でぷっつり切れる意。「広辞苑」
・・・続いてきた動作・作用・状態が,そこでおしまいになる。「新明解」
実証主義をとることで,事実だけが授業に扱ってよい資料となる。
そこでは,感情やイデオロギーによるバイアスのかかっていない情報だけが吟味される。
そのため情報の出どころが重要になる。
表面的な風評・風説をそのまま取り扱うのではなく,一度疑った上で,さらにつっこみ,いろんな事,自分の主張に反対する意見なども調べたうえで,信頼に足る情報を事実として扱う。
そうすることで,後の歴史を振り返ってみても実証に耐えられるもの,事実に耐えられるものを作り上げていく。
この歴史認識を誤ると子どもからそっぽを向かれる。
ギリギリまで教材研究し,それを信じ,授業化する。
ギリギリとは,100の本・ホームページ・資料に当たることをいう。情報をとにかく集める。
信頼に足る情報かどうかは,それから判断する。これが,教材研究のスタンスとなる。
ここで,二つの例を挙げる。
一つ目は,「奈良の大仏」授業である。
山下氏の「奈良の大仏」授業では,次の言葉がある。(P163)
指導上の留意点
1 この時間は,大仏のスケール,大仏建立の手順のイメージを作ることを重点にしたい。
ここがはっきりしてくると,つくらされた民衆の苦労が実感としてわかってくるようになる。
(「教え方のプロ・向山洋一全集 7 知的追及・向山型社会科授業」明治図書)
この文から判断すると,この授業は,「つくらされた民衆の苦労」を理解させるために授業展開がなされるはずである。つまり,イデオロギーのバイアスがかかっている。
この授業に対して向山氏は,大仏の材料が全国から集められたことを話し,銅だけに絞って考えさせるのである。
当時の生活を貧窮問答歌によってイメージさせ,つまり竪穴式住居がほとんどであったことなどを話して,どれくらいの人が「銅鏡」などの銅を持っていて,それを「寄附」したのか推定させたのである。(P179)
ここで出される事実は,「372,075人」の数である。
イデオロギーのバイアスがかかっていては出されない事実である。
この授業に対する子ども達の反応が明らかに違う。作文によって明らかである。(略)
二つ目は,TOSS社会Networkの2000年 10月11日 No16の巻頭論文から
TOSS社会Network No15の巻頭論文に対する向山氏からの手紙である。
(6)問題は,インターネットで子どもが調べ学習をする場合だ。資料が正しいかどうか分からない。
インターネットのサイトが信用できるかどうかも分からない。
この場合は「資料が信用できるかどうか」をまず学習しなければならない。
(7)「信用できるかどうか」は,1つの資料では分からない。
2つの資料を用意すれば,「違いは何か」が分かる。
つまり,まず,2つの資料を用意して,批評し「違いを整理させる」ここから,
インターネットの調べ学習は始まると発言したのである。
夏のセミナーでの向山発言は「インターネットで」「子どもが」「調べる学習をする」ときの「資料の信頼度の吟味」の授業について述べたのである。
風説をそのまま鵜呑みにしない。
インターネットは,子どもの調べる学習もそうであるが,教師であっても「資料の信頼度の吟味」が非常に大切である。
例えば,インターネットで,「南京大虐殺」を検索する。
すると,「あった」から「ない」という意見まで多種多様。その中から信頼おけるものを探す。
実証主義とはそういうことである。
ここから導き出される原則は,以下である。
原則1 (原典は必ず)本・ホームページ・資料を100集めよ。
原則2 信頼おける事実だけを授業に使え。
原理2 人間主義
向山氏は次のように述べる。
それぞれ人の生き方,それはもちろん歴史上に名をとどめた人もいるでしょう,そうでない人もいるでしょう。
(中略)そういった点ではマルキシズムとは一線を画します。
古代の奴隷制から封建制に始まり,そして資本主義,社会主義になっていくというマルキシズムの歴史観とは真っ向から対立します。
そのような枠組みの中では,歴史を,社会を見ないのです。
それぞれの歴史の時代のそれぞれの場所での人間の生き方,いわば人間主義ともいうべきその上にたった形での社会の見方歴史の見方,ということを貫いていただきたいと思うのです。(同書)
マルキシズム・・・マルクス・エンゲルスに始まるプロレタリアート解放運動の理論体系。哲学的基礎としての弁証法的唯物論,それを社会に適用して社会をその物質的土台から歴史的に把握する史的唯物論,(中略)社会の発展,科学の進歩などによってその内容は常に創造的に発展するとの立場を取る。「広辞苑」
古代の奴隷制,封建制を現在の立場から判断する。
すると,いつの時代も民衆が抑圧されているという事態が起こる。
西尾幹二氏は,「歴史を裁く愚かさ 新しい歴史教科書のために」(PHP文庫)の中で次のように述べている。
ところが列強の中で必死に自主独立を守ろうとして苦難に満ちた歩みを進めていた明治国家の「目的」は,いっさい執筆者たちの視野の中にはない。明治政府はまず「悪者」として設定されている。
自由民権派は「善人」なのである。きわめて単純なコミック・マンガ風の配役が前提になっている。
人間に帰らず明治政府というえたいの知れないものに対抗している図式が出来上がっているためであろう。
また,明治時代を列強が日本を狙っていたそのような立場にいない。
歴史は,それぞれの時代のそれぞれの場所で,人間の生き方を通して理解されるものである。
「戦国時代」の授業は,向山氏の思想をシステム化した授業となっている。
ここから導き出される原則は,以下である。
原則3 人間(人物)の生き方にせまれ。
原則4 歴史の時代の立場に立て。
原理3 日本主義
向山氏は次のように述べる。
私たちは日本の教師なのですから,日本人の立場に立ち,日本人のことを温かく見る。
まずそういった視点を貫いていただきたいのです。(中略)日本の教師が日本の子どもに教えるとき,日本の国というのはすばらしい国だったと,思うようになるのは当然の話です。
もちろん間違いは間違い,失敗は失敗,それは率直に話し,教えるべきでしょう。
しかし,そのことを過度に重視するあまり,嫌いになったなどと,そんなことを言わしめるようなことが,日本の教育である日本の大切な子どもたちを預かる教師がやっていい授業であるはずがありません。(同書)
さらに、「教え方のプロ・向山洋一全集 7 知的追及・向山型社会科授業」明治図書に次のようにある。
そもそも「日本によいところがある」,「日本にもすばらしい点がある」としたら,どのような点がすばらしいのか,言えるだろうか。
読者の方々は,自分の教え子にそれを授業してきただろうか。
例えば次のようにである。
「日本人のすばらしさは,次の三点である。第一に・・・,第二に・・・,第三に・・・。
それは,日本の歴史の中で,次のような形で証明されている。
さらに,このことをアメリカ,中国など,いくつかの外国と比べてみると,明確な違いとなっている」
つまり,日本人のすばらしさを,明確に示し,それを歴史の授業の中で検証し,
さらに諸外国との比較の上に論証したような授業である。(P122)
私は,日本が好きである。
それは,祖先に感謝する心となっている。
今現在の繁栄が,先人達の努力・犠牲の上にたっている事も知っている。
このような事実を授業とすること。
また,日本の歴史書の一つである「古事記」・「日本書紀」を見直すべきこと。
そのような日本に誇りを持つ授業が必要である。
ここから導き出される原則は,以下である。
原則5 日本の誇れる事象を取り上げよ。
原則6 外国と比較せよ。
原理4 未来主義
向山氏は次のように述べる。
子どもたちが来るべき20年,30年,40年に,突き当たるかもしれない問題をそのことを今の段階から授業していくのです。
その中で基礎的な事実,そういったことについて授業の中でかけていくのです。(TOSS社会NetworkのNo11の巻頭論文)
子ども達への来るべき問題とは何か?
エネルギー問題
北方領土の問題
平和学習の問題
反日・アンチ日本の問題
南京大虐殺の問題
第二次世界大戦の戦後補償の問題
戦争に対する認識不足 情緒的な見方
などが挙げられる。
これらの問題を基礎的な事実を授業化するのである。それだけでも備えができる。
国際社会に出て行く子ども達に日本という国を語れる基盤ができる。
また,日本人としての気概を祖先の行為から学ぶことが必要である。
ここから導き出される原則は,以下である。
原則7 事実認識を育て,前向き,建設的にとらえる授業を行え。
原則8 日本人の気概を育てよ。
原理5 教育、授業の中で行っていく
向山氏は次のように述べる。
私たちは,それを教育という中で行っていきます。教育として授業として行っていきたいのです。
決して政治家が多くの人をアジるような説得するようなそういうことではなく,授業という形の中であくまで事実を伝えるのです。
そしてそれを受けた子ども達が,賛成であり,反対であり,他の方向を向く,そんなの当たり前の話です。(同書)
授業とは,情に訴えたり説得したりするものではない。もちろん授業が成立するためには,授業システムが必要である。
向山氏の「ペリー来航」の授業では,子ども達の認識を自然に逆転現象に持ち込む授業組み立てが行われていた。
また,その授業では,向山氏は,一言も意見をいうことがなかった。
最終的な判断を子どもに任せているのである。
ここから導き出される原則は,以下である。
原則9 事実を組み立てよ。
原則10 判断は,子どもにゆだねよ。